世界を旅した波佐見焼。『コンプラ瓶』に秘められた歴史

世界を旅した波佐見焼。『コンプラ瓶』に秘められた歴史

2026.08.14

「コンプラ瓶」という名前を聞いたことはありますか?

名前だけ聞くと「なんのことだろう」と思う方も多いかもしれません。

じつは、コンプラ瓶は波佐見焼の歴史を語るうえで欠かせない存在のひとつ。
今回は、波佐見町の学芸員である中野雄二さんに、その正体や見どころについてお話を伺いました。

波佐見の歴史に関する多くの史料が保管・展示されている波佐見町歴史文化交流館。通称波佐見ミュージアム


海をわたる波佐見焼

「コンプラ瓶とは、日本から海外へ、醤油や酒を輸出する際に使われていた、磁器製のボトル型容器のことを指します。

器には、呉須の染付で『JAPANSCHZOYA(日本の醤油)』もしくは『JAPANSCHZAKY(日本の酒)』と書かれているのが基本です。江戸時代から明治時代にかけ、おもに波佐見でつくられ、海をわたり外国に輸出されていました。

多くに書かれている『CPD』の文字は『コンプラドール(仲買人)』という言葉の略で、この言葉からコンプラ瓶と呼ばれているんですよ」

日本の醤油や酒が、海をわたって世界中に輸出されていたんですね。
それではなぜ、波佐見焼が使われていたのでしょうか。

「江戸時代から、波佐見は大量生産が得意な産地でした。さらに、この頃は長崎県の出島が日本で唯一、世界に開かれていた貿易港でした。波佐見で容器を作って、現在の長崎市のほうで中身を詰めて出島から輸出をしていたのです。

量産の技術がなければ、器の厚みによって容量が変わってしまうこともありますよね。
今とちがって、すべてろくろで手作りだったわけですが、波佐見はその技術が評価されていたんですね」

出島で発掘されたコンプラ瓶。おそらく船に積み込む際に落としてしまったものだそう。大量に輸出されていたことがうかがえます


コンプラ瓶は、醤油や酒を海外に届けるための波佐見焼。その多くはオランダをはじめとする外国で見つかっています。
それらを比べて見てみることで、どんな風に使われ、時代によってどんな変化があったのかがわかってくるんだそうですよ。


見比べてわかる、時代の移り変わり

とはいえ、どれも似たような瓶の形をしているコンプラ瓶。
どのようにして見分け、特徴を分析しているのでしょうか。

「そもそもコンプラ瓶は、江戸時代後期から明治時代にかけて作られ、使われていました。波佐見には焼きものを捨てる『物原(ものはら)』という場所があり、そこに堆積する層を分析することで時代が特定できるのですが、コンプラ瓶は一定の時代にのみ見られています。

さらに深掘りすると、そのなかでも江戸時代のものなのか、明治時代のものなのかも判別することができるんですよ」

「たとえば、こちらの2点。左が江戸時代で、右が明治時代のものです。
どこがちがうかわかりますか?

まずは形。左は首が長いよね。時代が進むとこれがどんどん短くなって、胴の形もなんとなく変わってきます。

次に、文字。最初は、書かれている文字はすべて手描きだったんです。それが、明治になるとステンシル(文字をくり抜いた型の上から色をのせる技法)に変わるんです。

それに、呉須の色もちがうでしょう。」

たしかに。並べてみると、形はけっこう違います。
呉須の色は、明治時代のもののほうが鮮やかな印象です。

江戸時代、波佐見を中心に大量生産された庶民向けの器「くらわんか碗」で印象的な渋い呉須と同じ雰囲気

「波佐見焼で多く使われる呉須ですが、明治時代になると、工場で作られるようになります。それまでは天然のものでした。」

ということは、明治以前は呉須はそれぞれの生産現場で調合されていたのでしょうか。

「いいえ、江戸時代のころには、既に大量生産の現場が整えられていたので、呉須も中国で作られたものを一斉に輸入していました。
大村藩がそれを手配していたという内容が、当時の記録に残っているんですよ」


呉須だけでなく、焼きものの生産が大きく変化したことを読み取る手がかりがもうひとつあります。

それは、器の色。
コンプラ瓶の白は、すなわち生地の色。原料となる陶石によって、焼き上がった器の色が決まります。

「明治になると、現代の波佐見焼と同じように『天草陶石』が使われるようになります。それまでは波佐見の三股(みつのまた)で採れる石が使われていました。
天草の石で作ったものは、仕上がりがとても白いんです。

こうした特徴と記録などの史料を照らし合わせて、どの時代にどんなふうに作られたのかを予想することができるんですよ」

説明を聞いてから改めて見比べてみると、たしかに違いがありますね。
器に残る手がかりから、波佐見のものづくりの歴史や当時の風景まで想像がふくらみます。


ちょっと珍しい、こんなコンプラ瓶も

ここまででもたくさんのコンプラ瓶を見てきましたが、「ちょっと珍しいものもあるんですよ」と中野さん。

まずはこちら。文字がなく真っ白!
「下絵を忘れてそのまま焼いちゃったんですかね」

栓をした上から布で覆い、留め具として使われていたと考えられるリングがそのまま残った貴重な品

日本らしい鳥居が描かれたもの。
「これは波佐見でなく有田で作られたもの。有田でも一部生産されていたようです」

「口のところの土に空気が入っていて、焼いたときにはじけてしまったんだと思います」
量産とはいえすべて手仕事。最後の最後での失敗は、当時の職人さんも残念な気持ちになったでしょう


波佐見焼のシンボルを未来につなげて

数々のコンプラ瓶を見せていただいているうちに、コンプラ瓶にどんどん愛着がわいてきました。

「現在では、コンプラ瓶そのものではなく、形を模した一輪挿しなどの波佐見焼が作られていますよ。ここ、波佐見町歴史文化交流館では、オリジナルグッズとして、重山陶器で作られた醤油皿を販売しています」

コンプラ瓶デザインの醤油差し

歴文オリジナルの醤油皿


「過去には、長崎大学と共同で、復刻版も作ったんですよ。実際にお酒を入れて販売しました。

せっかくの波佐見の宝なので、そんなふうにもっと活用してもらいたいと思っています」

波佐見町観光協会で販売されている「陶箱クッキー」にも、小さなコンプラ瓶の形をしたクッキーが!

金屋神社には、コンプラ瓶の形をしたおみくじやお守りも

毎年8月末に開催されるはさみ夏まつりでは、「コンプラ灯篭」が並ぶ

こうして見てみると、意外とたくさんのコンプラ瓶モチーフのものがあるんですね。

町の人からは、今も親しまれている存在であることがわかります。

「波佐見で作られていた焼きものが、ヨーロッパを中心として世界とつながっていたんだということは知ってほしいですね」と中野さん。

ルイ14世が醤油を好んで使っていたとか、オランダやロシアにわたったコンプラ瓶が現地で花瓶やインテリアとして大切にされていたとか、さまざまな逸話があるんですよ。

みなさんが学校で勉強してきたような歴史ともつながって、かなり親しみがわいてきませんか?」


かつて波佐見で大量生産されていたコンプラ瓶。
その姿は今も波佐見町に、そして海の向こうの国々にも残っています。

小さな町・波佐見でつくられた焼きものが世界へ届けられていたことを伝え続ける存在なんですね。

波佐見を訪れる機会があれば、ぜひコンプラ瓶にも注目してみてください。


中野さん、ありがとうございました!

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2026年7月24日~9月14日の期間で波佐見町歴史文化交流館で開催されている『波佐見町町制施行70周年記念「歴文のお宝大集合」~自慢の70選~』では、実際にコンプラ瓶を見比べることができますよ。

そのほか、70周年にちなんだたくさんの貴重な史料が並んでいます。
ぜひ訪れてみてください。

波佐見町歴史文化交流館
開館時間
9:00~17:00(最終入館 16:30)
休館日
火曜日
住所
長崎県東彼杵郡波佐見町湯無田郷1010-1
駐車場
あり

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この記事を書いた人
Hasami Life編集部