ディープなやきもの。Vol.3 絵柄 〜朝鮮と中国からの技術~
特定の世界では常識的なこと、知らなくても困らないけれど知っていたらちょっとツウ(!?)なこと。 窯業界で数多く存在する「ディープなやきもの」情報を何度かに分けてお届けしていきます。
第3回目は日本へ伝わったやきもの歴史について。クイズを挟みながらご紹介します。どんどんマニアックになっていきますが、ぜひ、クイズに挑戦しながら読み進めてみてくださいね。
取材協力:波佐見歴史文化交流館
肥前地区のやきものの始まり
日本は主に本州で陶器の生産を行っていました。1580年頃、現在の佐賀県唐津市のあたりで九州では最初の陶器生産の技術が朝鮮から入ってきました。その後、佐賀や長崎などの肥前と呼ばれる地区で陶器生産が広まりました。このころ肥前地区一帯の陶器のことを「唐津焼」と呼んでおり、その中で絵柄のついたものを「絵唐津(えがらつ)」と呼んでいました。
波佐見町で作られた絵柄付きの陶器も「絵唐津」と呼ばれていました。
朝鮮からの技術到来
磁器生産の技術が日本へ入ってきたのは、1590年代。豊臣秀吉が起こした「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」の際に連れ帰られた朝鮮の陶工たちによって伝えられました。
1610年頃になると、有田や波佐見で専用の窯が立てられ、白磁(はくじ)や青磁(せいじ)、染付(そめつけ)などの磁器生産が本格的に始まります。
しかし、この頃の波佐見町は、まだ陶器生産が主流でした。
1630年代に入ると、完全に磁器生産に移り変わり、三川内でも磁器の生産が始まりました。
有田では染付や色絵、波佐見では青磁や染付を中心に生産していました。青磁は素地に彫りを入れたものが多く、白磁の器などにも彫りを入れたものが多く見られました。
景徳鎮の技術
少しさかのぼること1610年頃、中国最大の陶磁器製造所「景徳鎮(けいとくちん)」から磁器が大量に輸入されるようになり、日本では「唐物」として献上していました。
景徳鎮は、高嶺土(カオリンド)と呼ばれる真っ白な石を使用するのが特徴で、代表的なものに白磁、青白磁、青花(日本では染付という)、五彩(日本では赤絵という)があります。
その中で、江戸時代に日本が海外輸出を始めた際、芙蓉手(ふようで)や金襴手(きんらんで)と呼ばれる技法は波佐見や有田の絵付に大きな影響を与えました。
・芙蓉手(ふようで)
ベトナムで見つかった芙蓉手。器の内側の中央に大きく円窓を描き、円を区切る文様構成が芙蓉の花を連想させることから日本では芙蓉手と呼ばれています。
・金襴手(きんらんで)
白磁に色絵付が施されたものに金彩で文様を現した器は、まさに絢爛豪華(ごうかけんらん)なもので、大皿や壺などに施されています。当時は一色ごとに窯に入れて焼いていたため、1つの器で四回程度焼成を行っていました。
伊万里焼として世界進出
1640年代に、中国で大きな内乱が起こりました。これに伴い中国の輸出は中止され、1650年代から1680年代にかけて、波佐見や有田のやきものが、世界へ輸出されるようになります
有田はこのころ染付や色絵をヨーロッパに長崎の出島から輸出し、波佐見では青磁や染付を東南アジア向けに長崎の新地から、どちらも「伊万里焼」という名前で輸出していました。
波佐見では、海外輸出用の器生産を強化するため、一時は大量の登り窯が作られました。大村藩では「皿山役所」を設け、やきものを直接管理しました。
波佐見町だけではなく、日本のやきものは中国や朝鮮からの影響を大いに受けました。波佐見町で現在使用されている呉須(ごす)と呼ばれる色も中国で使用されていたものです。
景徳鎮(中国)では、今でも盛んにやきものを作っています。美しい器がたくさんありますので、気になる方はぜひ検索してみてください。