窯元探訪【聖栄陶器】vol.40 木下光春『焼きものは、生きものだから。』

窯元探訪【聖栄陶器】vol.40 木下光春『焼きものは、生きものだから。』

2025.08.22

波佐見には、町のいたるところに波佐見焼と真摯に向き合う「人」が存在します。

今回訪ねたのは、波佐見焼の窯元のなかでも随一の生産量をほこる「聖栄陶器」の代表、木下光春(きのした みつはる)さん。

今年の春には、もともと工場のあった川棚町から波佐見町内への移転という、一大プロジェクトがありました。

社員の退職、新工場の動線やレイアウト設計、波佐見焼を取り巻く変化……。さまざまな課題を抱えながらも、100年続く企業を目指して挑戦し続ける木下さんの背中を追います。

スタンパーの音が子守唄だった

波佐見町から嬉野市へとつづく県道1号線。焼きもののお店や工場が集積するエリアから少し離れたところに、今年の春、聖栄陶器の本社は移転してきました。

ここはもともと、高山陶器(現・株式会社高山)という窯元の工場でした。その高山が、道路を挟んだ向かいに新工場を設立。空き工場となったこの場所に聖栄陶器が移転してきたというわけです。

高山についてはこちらの記事でくわしく紹介しています。

移転前は、波佐見のおとなりの川棚町にあった聖栄陶器。産地のなかでも随一の生産量を誇るメーカーですが、そもそもなぜ川棚町に拠点を構えていたのでしょうか。

答えてくれたのは、3代目社長の木下光春さん。

「もともとは木下陶土という、焼きものの原料のメーカーでした。熊本の天草で採れた陶石が川棚の港に運ばれてくるので、それを持ってきて、自分のところで割って陶土にする。その関係で、川棚にゆかりがあったんです」

幼少期は、自宅のすぐそばに陶土の工場があったそう。陶石を粉砕する「スタンパー」と呼ばれる機械の音が、暮らしのBGMでした。

「うちの兄にしてもぼくにしても、あの音が子守唄だったんで。コットン、コットン… トーン!トーン! って音が変わったら、何かがおかしいでしょ? そこで様子を見に行って、臼混ぜっていう作業をする。そんな環境で育ったんです」


当時は家族経営の延長線上で、従業員数も10名ほど。仕事場に出入りしては、従業員のおじちゃんおばちゃんに家族同然に面倒を見てもらったといいます。

「『光春、手伝うか?』って言われて手伝ったら、よく波佐見の温泉センター(現在の『はさみ温泉湯治楼』)に連れて行ってもらってたんですよ。ぼくはいつもカツ丼を食べてました。小学校のころからよく手伝ってましたね。おいしい晩飯が食べられるから(笑)」

量産を支えるのは、機械と土

その後、陶土メーカーから窯元へ転身。分業が基本の波佐見ではめずらしく、原料づくりから焼成までを一気通貫で手がけるようになります。

ローラーハースキルンや全自動成形機、パット印刷 機や釉薬がけのロボットアームなどの機械を積極的に導入したことで、生産効率はさらに向上。波佐見町随一の生産量を誇る窯元へと成長していきました。ピーク時にはなんと、一日に6万ピース(蓋や取手などの部品も「1」とカウントした数)もつくっていたとのこと!


その安定生産を支えてきたもののひとつが、独自に配合した陶土です。

「亡くなった親父がよく言ってました。『陶石は、つねに同じものが来ると思うな。生きものだから』。同じ山から採っても、成分は少しずつ変わるんですね。だからうちは天草の陶石を主体に、6種類の土をブレンドしています。それを半年に1回は窯業技術センターに持っていって分析してもらっているんです」

原料や焼き方の違いによって生まれる個体差は、よく言えば“味”ともとれますが、量産のなかでは“ムラ”になってしまいます。いいものを、より安くつくるために。原料からこだわれるのは、陶土屋というルーツがあってこそなのかもしれません。

戸棚には、二十数年にわたって残してきた陶土の調合表が保管されている。

いざ、移転!

お父さんの代に創業し、兄の勇さんが2代目。光春さんが3代目に就任したのは2年前のことです。機械に詳しい勇さんと、デザインや営業が得意な光春さん。兄弟二人三脚で会社を牽引し、今年で創業から57年目を迎えます。

この場所への移転は、どういった経緯で?

「移転に関しては大きな理由が3つありました。1つめは工場の老朽化。設備が劣化したことで、生産過程での不良品の数が増えていました。それを減らしたいというのがひとつ」

以前の工場の様子。無骨な町工場といった雰囲気でかっこいいものの、冷暖房も効きにくく、作業する人にとっては過酷な面もあった。


「2つめは、名刺を交換するときに住所が川棚町って書いてますよね。『なのになんで波佐見焼なんですか?』と素朴な質問をいただくことが多くて。やっぱり波佐見町内に拠点を構えたいと思いました。そして3つめに、もともと工場があった場所が、川棚町にとって一等地なんですよね。そこで我々が焼きものをするよりも違った施設ができれば、川棚町の発展につながるかなと思って」

移転自体は十数年前から考えていたそうですが、広大な工場を移転できるような場所はなかなか見つかりません。そんななかで3年ほど前、高山の移転にともなって候補に挙がったのが、この場所でした。

新工場のすぐ近くには、素焼き生地の製造・販売を手がける有限会社ニシトウがある。生地職人の数が年々減り、産地全体の大きな課題となりつつあるなかで、この会社が身近にあることも移転の後押しとなったそう。写真は生地の搬入に来ていたニシトウのスタッフさん。

浮かび上がるさまざまな課題

当初は2024年までに移転したいと考えていたものの、実際に移転できたのは今年の4月。予定より1年近く延びてしまいました。

木下さんも「こんなにパワーを使うとは思っていませんでした」と振り返ります。

「川棚にいたときからしたら、ここは土地の広さが半分以下なんですよね。今までは敷地が広かったために、ちょっとよけておきたい荷物があったら『ここに置いとき』って言えたんですけども、それができない。移転して3ヶ月は経ちますけど、いまだに工場内の動線は見つけきれていないのが現状ですね」

新工場の一角。奥には在庫を入れたサンテナが背丈近くまで積まれている。


課題は工場の動線やレイアウトだけではありません。

たとえば、働く人のこと。移転と同時に11名の方が退職を決めたそう。川棚町在住で通勤がむずかしくなる方や、高齢でもともと退職の意向があった方など、理由はさまざまですが、会社にとっては大きな痛手です。


移転にともなって2ヶ月ほどは工場を稼働できない時間が続きました。その間、残る30名近い社員の雇用を守らなければならない。

さらには、電気・機械・建築関係と、他業種の業者さんとの打ち合わせが続く日々。「体重も減りました」と木下さんは笑って話しますが、経営者の立場を思うとこちらまで胃が痛くなってきます……。

それでも木下さんは、この移転を前向きにとらえています。

100年続く企業になるため、波佐見焼という産業をこの先も残していくために。後編では、聖栄陶器のこれからについてさらに話を聞いていきます。


(つづく)

【聖栄陶器】

〒859-3704
波佐見町小樽郷820番地

0956-59-6555

公式サイト
https://shoeitoki.co.jp/


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この記事を書いた人
中川晃輔
千葉県柏市出身。大学卒業後、生きるように働く人の求人メディア「日本仕事百貨」の運営に関わる。2018-2021年に編集長を務め、独立。波佐見町のご近所・東彼杵町へ移り住み、フリーランスの編集者として活動している。