THE HASAMI-YAKI vol.4

THE HASAMI-YAKI vol.4

2020.04.10


もっと知りたい、波佐見焼の歴史【後編】

400年以上の歴史を持つ波佐見焼。現在も、波佐見焼の発掘調査や歴史探求を続ける学芸員の中野雄二さんに波佐見焼のいろいろを「歴史」という観点から伺います。発掘調査ってどんなことをするんですか? 波佐見焼の未来については、どのようにお考えですか? 教えてください、中野さん!

 

中野雄二さん(学芸員)


物原を掘り起こし、歴史を辿る

昔は、失敗した焼きものを窯の横にどんどん捨てていたんですね。その焼きものが溜まっている部分をわたしたちは「物原(ものはら)」と呼んでいて、物原を発掘調査することによって、これまでにどんな焼きもの作られていたのか、時代はいつ頃なのかを調べています。

地層は、下から順々に溜まってきます。もちろん、掘るときは上からなので、新しいもの〜古いものの順に見つかっていきます。それをひとつひとつ、地層との関係を調べながら細かく調べていくわけですね。ちなみに少し前に調査していた場所では、2m30cmほど掘りました。一番新しいところが1920年代ぐらいだったのですが、1640年代ぐらいまでの焼きものが見つかりました。

すべて物原で見つけた失敗品。だから、歪んだり、欠けたりしている。焼いてる最中に割れてしまっただろうものも多い。

「波佐見焼は見るだけでわかりますか?」とよく聞かれるのですが、古い焼きものであれば、ある程度はわかります。ならば、何で見極めるかというと……、「雑」か、そうでないか(笑)。お隣の有田焼は、江戸時代からアッパークラスの人達向けの焼きものが多いとお話しましたが、一方で波佐見焼は庶民向けの器ですよね。やっぱり作りがちょっと雑だし、器自体がちょっと厚ぼったかったり。今は、本当に洗練されてますね。形もシャープだし、薄いし。

例えば、平皿。ひとつでも多く作るために重ねて焼いていたんですよ。だから、内側にドーナッツ状に跡が付いているでしょう? 沖縄のやちむんなどでは、今でもこの技法を残しているところがありますね。それは量産というより、デザイン性を重視しているのかもしれません。

ドーナッツ状の跡。重ね焼きはどうしても跡が残ってしまうため、今では使わない技法だが、昔は盛んに行われていたという。


雑な方が新しく、ていねいな方が古い

模様を見ても、年代がわかります。大量生産がどんどん進んでいくと、1点でも早く多く書くために相当「雑」な絵付けになっていきます。1700年代には、裏にも絵付けしてあったのに、1750年代はもはや裏には何も描かれていません。50年で大きく変わりました。つまり、模様を見ることで、大量生産がどんどん進んでいく過程がわかるわけですね。普通は「雑なほうが古くて、ていねいなほうが新しい」と思うのでしょうが、まったく逆なんです。

「呉須」にも特徴がありますね。呉須というのは、主成分が酸化コバルトで焼いたら青くなる顔料のことをいいます。波佐見焼に限らず、焼きものに使われている青い顔料は基本的に呉須なのですが、混ぜものをして不純物が入ると、色が濁るんです。純粋であるほど、ブルーも美しい。ですから、これも古い波佐見焼ほど、鮮やかな色をしているんです。

呉須の原料は石。日本では採掘できないため、中国から輸入している。左のほうが、絵付けもていねいでブルーも鮮やかなので、古いくらわんか碗。


中国に憧れた波佐見焼

もうひとつ面白いのは、焼きものに描かれた文字。「大明年製(たいみんねんせい)」とあるのですが、中国の真似をして描いているんです。中国に「明(みん)」という国がありましたよね。そこで焼きものに印字する年号が大明年製なのですが、当時、中国の焼きものはとにかく価値が高かったので、描き入れることで価値を高めようとしたのでしょう。初めはていねいに描かれていたのですが、どんどん書体が崩れていって。しまいにはなくなってしまいます。量産に転じていく歴史は、碗の裏側を見てもわかるんですね。

大明年製の文字は、波佐見焼だけでなく、有田焼でも見られる。

しかし、雑だったのは、江戸時代の末期(1860年代)まで。巨大な登り窯で焼いていたのが、この頃までなのです。登り窯は、大村藩の援助を受けて操業していたのですが、明治維新の廃藩置県によって藩がなくなり、今までと同じように使用できなくなりました。個人経営の小さな窯で焼くことが一般的になっていくに従って、これまでよりもていねいに焼きものが作られるようになっていくのです。



波佐見焼の未来を考える

わたしは大学で考古学を研究していました。大学の先生がたまたま焼きものの研究をしていて、波佐見町にある畑ノ原(ハタノハラ)窯跡を発掘調査された方でした。わたしが長崎市出身だと知り、「波佐見で焼きものの研究をしてみたら?」と提案されたのがきっかけとなり、今に至ります。

歴史的に見ても、分業体制が今でも残ってる波佐見は本当におもしろい生産地だと思っています。はっきりとした記録は残っていないですが、分業制は江戸時代の前半ぐらいから続いていると推測しています。大量生産というのはひとつの技術なんですよね。1個でも多く作るという技術。昔の人が巨大な窯を制御できたのも技術。本当に波佐見は技術の町。この技術こそ波佐見焼の歴史です。どうか絶やさないようにしてほしいという気持ちが大きいです。

分業制といっても、同じ仕事をしている人も多いじゃないですか。でも、得意なところは得意な人に任せたり、ライバルのはずなのに基本的に仲が良いのが波佐見焼に関わる人たち。本当に不思議だなと思うのですが、これも江戸時代まで波佐見町に商人がいなかったからではないかと考えています。明治以降になると、元々焼きものを作っていた職人が商人に変わっていったという文献がありますが、焼きもののことをよくわかっている人が商人として動き始めたからこそ、今でも協力体制がしっかりしているのかもしれません。

「波佐見焼の人気が高まるのはうれしいです。歴史的なことにも、もっと興味を持っていただけたらさらにうれしいですね!」と中野さん。

波佐見焼は、今、ギリギリのバランスを保ってる気がします。これ以上、生産量を増やすと、人の手を離れちゃうんじゃないかな?と。何代も続く窯元も多いわけですが、先代が手をかけてやってきたことをしっかりと継承できているというか、技術に対する尊敬の念というか、手の温もりの大切さというか、そういうことを作り手のみなさん自身がわかってらっしゃるからこそ、ちょうどいいところで踏ん張っている印象があります。ただ、後継者不足は問題になっていますし、「焼きものを作るための道具」を作る技術の継承も必要です。カンナ職人も今はとても少なくなりました。なんとかクリアしたい課題ですよね。

一方で、新しい作家さんが増えてきたことは本当にいいことだと思っています。いろいろな人を歓迎できるウェルカムな空気こそ、波佐見の長所だと思います。若い人たちの発想力、デザイン力はやっぱり素晴らしいから、影響し合って、どんどん新陳代謝して進んでいく。いわゆる伝統的な技術を守りつつ、最先端なものも作ってほしいというのが、わたし個人としての願いです。2つの方向性があって、波佐見焼はもっと活きるはずですから。

 

中野さん、ありがとうございました! また、ぜひ、お話を聞かせてください。次回は、実際に波佐見焼ができるまでの工程を追いかけます。



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この記事を書いた人
Hasami Life 編集部