THE HASAMI-YAKI vol.1
“波佐見焼(はさみやき)”ってなんだろう?【前編】
あなたはふだん、どんな「器(うつわ)」を使っていますか? 今朝、ほかほかご飯をよそった茶碗、目玉焼きをのっけた皿、そういえばランチで食べたラーメンの丼はどんなものでしたか? 器は、生活するための『実用品』でありながら、わたしたちの暮らしにほんの少しだけ『華』を添えてくれる存在でもあります。
器えらびに、ルールはありません。形が好き、色が好み、なんとなく好き。シンプルな感覚があれば充分。旅先での出会いも素敵です。「使ってみたい!」という気持ちがあれば、食卓がよりたのしいものになるはずです。
器とひと口にいっても、種類がたくさんありますが、わたしたちにとって最も身近なのは「焼きもの」ではないでしょうか? 昔から日本では、各地にたくさんの焼きもの文化があります。ここ、長崎県波佐見町でも、ある焼きもの文化が生まれ、そして守られてきました。名前を「波佐見(はさみ)焼」といいます。
ニッポンの食卓を支える “波佐見焼”
長崎県波佐見町。人口14000人余りの小さな町では、日本中、いや世界中で使われる器が作られています。和食器の出荷額は、美濃焼(岐阜)、有田焼(佐賀)につづき、国内ではなんと第3位! つまり、日本でも有数の焼きものの産地なのです。とはいえ、焼きもの好きのみなさんの中でも「波佐見焼」という名前を初めて聞いた方もいらっしゃるのではないでしょうか? それもそのはず、波佐見焼はこれまで有田焼として売られていたのです。
有田焼でおなじみの佐賀県有田町と波佐見町は、県こそ違えど、おとなり同士。昔はどちらも「肥前国」と呼ばれる地域だったこともあり、波佐見町は有田焼の下請けとして栄えてきました。しかし、あるとき、「別のものとして売っていこう」という提案が持ちかけられます。ほんの10年くらい前の話です。
そもそも “波佐見焼”ってなんだろう?
この時はじめて、波佐見の人たちは「そもそも“波佐見焼”ってなんだろう?」と、これまでの歴史をふりかえることになりました。
波佐見焼のはじまりは、約400年前。庶民の食卓に定着しはじめたのは、江戸時代でした。このころの大阪では、ちまたに肉体労働者たちが溢れ返っており、川に浮かぶ大きな船にはたくさんの人が乗っていたため、食料や酒を売る商売が大繁盛。「飯くらわんか、酒くらわんか」と、小舟から大船に向かって叫ぶように売買が行われたといいます。けっして裕福ではなかったこの時代、乱暴な扱いにも耐えられてすぐに壊れることのない丈夫な食器類として、波佐見町で誕生したのが「くらわんか碗」です。
時代の変化に合わせ、庶民が必要なものを生み出すこと。それが「波佐見焼」の大きな背骨。その上で、広くあまねく人々の暮らしを支えるために、一度にたくさんの焼きものを作り出す必要がありました。品質を落とさずに高いクオリティーを保ったまま、大量生産をする。その目的を達成するために、波佐見焼が選んだ生産体制、それが「分業制」だったのです。