波佐見焼のブランドを築いた立役者・兒玉盛介さんに聞く、波佐見焼の誕生秘話
2021年、春の叙勲において、長崎県波佐見町の焼きもの総合商社「西海陶器」の会長である兒玉盛介(こだま もりすけ)さんが『旭日双光章(きょくじつそうこうしょう)』を受章しました。旭日双光章とは、国や公共に対し功労のあった人を称える勲章です。
焼きものの産地・波佐見を牽引し、町の観光にも大きく貢献してきた兒玉さん。「波佐見焼」というブランドが生まれるずっと前からこの産地のことを考え、働いてきた軌跡をじっくりと伺いました。
旭日双光章は、使命と趣味の結果。
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旭日双光章の受章、おめでとうございます。今回、どういった活動が評価されたのか、長崎県陶磁器卸商業協同組合で兒玉さんの功績をまとめた中村さんにお話を聞いてきました。商業組合の理事長として波佐見焼のブランドを先頭に立ってつくってきただけでなく、波佐見焼振興会の会長として陶器まつりを盛り上げ、観光客をふやすためグリーンクラフトツーリズムを推し進めNPO法人活動で「文化の陶 四季舎」をつくられました。さらには今や人気スポットとなった「西の原」も、廃業した製陶所を買い取って開発されています。とても精力的に活動されていますよね。
兒玉:
焼きものに関しては、使命感が強いですね。自分の先祖がずっとやってきた“なりわい”ですし、父親も戦後に一から西海陶器という会社をつくり大きくしました。この産地に生まれた人間として、ブランドを確立することは使命としてやっていましたね。
でも、西の原の開発などは趣味。周りの人に、よろこんでもらえるようにつくりました。それだけなんですよ。
波佐見焼というブランドを生み出すまで
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使命と趣味、というお話、おもしろいです。まずは波佐見焼のブランドの確立という使命について、お聞かせください。
兒玉:
そもそもこの辺りには、昔から焼きものをつくっている歴史こそあれど、「波佐見焼」というブランドは存在しませんでした。
江戸時代は、お隣の佐賀県にある伊万里港から焼きものを積み出して全国に運んでいたので「伊万里焼」という名前で呼ばれてました。その次は明治になってから、佐賀県と長崎県の県境でもある有田に鉄道の駅ができ、有田町に隣接している波佐見町もそこから焼きものを出荷したため「有田焼」と呼ばれるようになりました。
有田焼=有田町で作られたものを指すという歴史はなく、もっと広範囲の肥前地区の焼きものを表す言葉でした。波佐見もその地域に含まれていたので、「波佐見焼」という呼び名が生まれてまだ日が浅いですが、産地としては400年の歴史があるんですよ。
――:
2003年ごろに牛肉に端を発した産地偽装問題があり、有田焼として販売していた波佐見の焼きものも、地域ブランドを明確にしようとする“産地厳格化”のあおりを受けました。そのときは兒玉さんが商業組合の理事長をなさっていたとお聞きしました。
兒玉:
当時はひとことで言えば、すごく揺れていました。商業組合の理事長として、何度も有田へ話し合いをしに行って「歴史を見れば波佐見も有田焼です、一緒にやっていきましょうよ」と言って断られて……あるとき、交渉が決裂した帰り道に決心したんです。もう、私たちは波佐見焼として売ろうと。「西海陶器は波佐見焼として売っていきます」と宣言して、器に貼っていた有田焼のシールをはがして販売するように変えました。
当時は波佐見の焼きものの売上も右肩下がりでしたし、そんな状況下での西海陶器の方針に町内でも反対の声もありましたけど、周りにも理解して「わかった、兒玉さんに協力する」と言ってくれる人が出てきてね、波佐見焼としてのブランドをつくる運動がはじまったんです。
――:
これまでの有田焼のブランドから脱して、先の見えないはじまりだったんですね。
兒玉:
未来がどうなるか、なにもわからなかったですよ。波佐見における焼きものの本質をさぐって、400年の歴史を見つめ直しました。
いろんな活動をしましたね。長崎県窯業技術センターで「やきものプロ養成講座」という販売する方々向けに波佐見焼を知ってもらう勉強会を開いたり、百貨店などで「波佐見焼フェア」を開催したり。
そうしたなかで、波佐見焼のブランドを確立するきっかけのひとつになったのは、東京ドームで開かれるテーブルウェア・フェスティバルでの出会いです。日本中から食卓を彩る器たちが一堂に会するイベントで、当時波佐見焼は隅の一番小さなブースだったけれど、総合プロデューサーをされている今田功さんが、「波佐見焼が次の時代を背負う存在になる」と言ってくれたんです。
――:
まだ波佐見焼のブランドが浸透しはじめる以前にですか?
兒玉:
そう、当時はいろんな方に話を聞きましたが、低迷している波佐見の焼きもののことをそんなふうに言ってくれる人はほかに誰一人いなかった。私は鼓舞されたような思いでした。
――:
どうして今田さんはそうおっしゃられたのでしょう。
兒玉:
今田さんは人びとのライフスタイルが移り変わってきているのを敏感に感じ取っていました。焼きものの産地にはそれぞれ長い歴史のなかで培われた伝統や文化、個性があります。波佐見焼は江戸時代から献上品などではなく一般向けの器をつくっていましたから、世の中に合わせて柔軟に変化できる素地がありました。 技術力はあるけれど、決まったスタイルがなく自由なんです。だから「これからの時代に合った器をつくるのは波佐見だ」と。歴史的に日用食器をつくってきた産地だからこその強みを、今田さんだけは見抜いてたんです。
――:
波佐見焼のアイデンティティを模索していた兒玉さんも、新しい可能性に気づきはじめたんですね。
兒玉:
必死で「波佐見焼とはなにか」考えなければいけない時期でした。波佐見焼振興会の会長として波佐見陶器まつりの運営にも携わっていたのですが、そのころ焼きもの目当ての観光客の90%は隣町の有田陶器市へ行って、波佐見陶器まつりにはあまり人が来ませんでした。そういう危機的な状況のなかで、いろんな人と出会い勉強するうちに「ライフスタイルに合わせて柔軟に変化できる」ことが波佐見焼の強みだとわかってきました。新しい生活提案ができる、おしゃれでスタイリッシュな器がありますよ、というメッセージを打ち出すようになりました。
――:
今の波佐見焼はまさに、日常使いしやすいライフスタイルに合ったものですね。兒玉さんはどうしてそこまで、波佐見焼全体のことを考えてブランド確立に尽力することができたんですか?
兒玉:
客観的に見て、波佐見町は農業で大きく稼いでいる町ではありません。町としても紆余曲折、いいときも悪いときもありますが、歴史と文化を支えてるのはまちがいなく窯業。つまり、根本的な“ なりわい” は焼きものです。西海陶器もその歴史の一部として存在していますし、ほかの窯元・商社さんもすべてそうです。仮に西海陶器がなくなっても窯業自体は残っていくでしょうから、この産地に生まれた人間として、波佐見焼のブランドを確立させておきたいと思っていました。
――:
波佐見焼のアイデンティティの確立や販売促進だけでなく、グリーンクラフトツーリズムの活動もされていたのはなぜですか?
兒玉:
先ほども言いましたが、2000年ごろ波佐見焼の売上は大きく右肩下がりでした。焼きもの業界全体、西海陶器も含めて、どうにかしないとと右往左往していた時期です。同時にほかの“なりわい”を探す機会でもあると考えて、町内で仲間を集めてずっと勉強会をしてたんです。そのなかで農村などで休暇や余暇を過ごす、グリーンツーリズムという考えに出会って、窯業メインの波佐見町だからグリーン“クラフト”ツーリズムにしようと決めて活動してきました。
――:
観光振興のエキスパートである、イデアパートナーズの井手修身さんなど町外の専門家も招いて、進められてきたんですよね。
兒玉:
そう、いろんな人が協力してくれて感謝しています。でもね、はじまりは私たち住民の危機感なんです。行政が主導だと、最初は調子がよくても長く続けるのが難しい。たとえいいプロジェクトであっても、3年くらいで予算がなくなって終了となってしまう案件が多いのではないでしょうか。でも私たちは住民側が危機感を持って集い、自ら行動してきた。それを行政がきちんと応援してくれた。だから民間で持続可能な組織を作り、活動してこられたんです。使命感のある人が集まってくれたというのは稀有なことですし、大きな要素ですよ。
西の原は趣味でつくったもの
――:
廃業した製陶所を買い取り、移住者の協力も得て再開発、今や人気スポットとなった「西の原」をつくりあげました。兒玉さんはインタビューの最初に趣味とおっしゃってましたが……。
兒玉:
西の原は公的な施設じゃなく、私が自分の会社で買い取って運営しているので、なにをしようが私の責任、私の趣味です。それがよかったですね。もしも公的な施設だったら、「貴重な建物だから火気厳禁」とか「土足で入っちゃだめ」とか、おそらく制約が多くなって今みたいな雰囲気にはできなかったでしょう。そういうところに、地域活性化の障壁があると思います。西の原は自分たちが好きなように運営しているんです。
――:
では今回の受章は、ある意味、趣味の延長でもあると?
兒玉:
そうそう、そんな感じです。名誉などを求めてやってるんじゃありません、好きにやっているんです。そう思ってなきゃ、できませんよ。「世のため人のために尽くす」というのは、世界をリードするような一部の人以外、掲げないほうが健全なのではないでしょうか。
――:
力強い言葉ですね。兒玉さんは、どういう考えで西の原をはじめられたのですか?
兒玉:
たとえば、ムック(カフェ)があったら私がお茶でも飲めるでしょう(笑)。それにみんながよろこんでくれて、スタッフの人たちが楽しそうに働いてくれてたらうれしいじゃないですか。鬼ちゃん(ムックをまとめる鬼塚宏美さん)たちが頑張ってくれているから、私は「頑張れ」と応援するくらい。もしも彼女たちが辞めたくなったら、辞めたらいい。プレッシャーをかけられたら、やるほうも嫌でしょう? 気楽なのがいいんですよ。
――:
奉仕の気持ちではなく、よろこんでくれたらうれしいと?
兒玉:
奉仕の気持ちなんて、ない、ない(笑)。大きな社会正義を持ってやっているわけじゃないんですよ。ただただ、うれしいじゃないですか、若い人たちが楽しそうにしてるのが。
――:
最後に、これからどういう活動したいと考えてらっしゃいますか?
兒玉:
みんなが第二の西の原になるような、にぎわう場所をつくってくれたらうれしいですね。行政が動くのを待つんじゃなくて、自立して好きにやってほしい。今度マルヒロさんが波佐見町内に「ヒロッパ」という公園をつくるというのも、とてもおもしろい試みですよね。もう私自身がなにかをするというより、これまで蒔いてきた種が波佐見で芽吹けばいいなと思ってます。私くらいの年齢の人間がずっと主導権を握っていても、町は活性化しないと考えているんですよ。次の世代の人たちにあとは任せて、応援していくだけです。
兒玉さん、ありがとうございました!