THE HASAMI-YAKI vol.3
もっと知りたい、波佐見焼の歴史【前編】
新しい焼きものと思われがちな波佐見焼。でも、その歴史は400年以上といわれています。波佐見焼という文化はどのように生まれ、守られてきたのでしょうか? もっと知りたい波佐見焼のいろいろを「歴史」という観点から掘り下げます。お話を伺ったのは、波佐見焼の発掘調査や歴史探求を続ける学芸員の中野雄二さんです。
波佐見焼のルーツは伊万里焼
ほんの10年くらい前まで、波佐見焼が有田焼として売られていたことは、ご存知でしょうか? 実は、さらに時を遡ると、もうひとつの事実があります。いきなりですが、江戸時代のお話をさせていただきますね。
江戸時代、このあたりで作られる焼きものは、すべて「伊万里焼」と呼ばれていました。伊万里焼といえば、現在は佐賀県伊万里市で作られる焼きもののことを指しますが、当時は伊万里港から積み出される焼きものすべてを伊万里焼として流通させていました。つまり、地域ごとに焼きものが作られていたにも関わらず、いっしょくたに扱われていたんですね。ですから、有田焼はもちろんのこと、波佐見焼という名称もありませんでしたし、肥前地区(いわゆる佐賀県、長崎県一体)にあるたくさんの焼きものが伊万里焼と呼ばれていたのです。
元々は、同じ伊万里焼なのに、有田焼と波佐見焼では、ずいぶんと特徴が異なると思いませんか? これは、藩が違ったことが大きな原因です。有田は佐賀藩で、波佐見は大村藩。今でいえば、国が違うようなものなので、政治も経済も生活様式も異なります。そうすると、目指す焼きものの形も違ってくるわけですよね。
“元禄文化”が分かれ道
特に1700年前後になると、日本では国内市場を開拓しようという動きが始まります。上方(かみがた)といわれる京都や大阪を中心に「元禄文化(げんろくぶんか)」が花開き、浮世絵や俳諧などの庶民の文化が発展した時代。焼きものの需要もどんどん高まっていきました。その際、佐賀藩は高級志向のものづくりへ、大村藩は庶民向けのものづくりへと方向性が分かれたんです。その理由は、同じことをしていたら共倒れになるから。経済的に棲み分けをすることで、どちらも生き残ろうとしたわけです。この頃は、まだどちらも伊万里焼と呼ばれおり、江戸時代の文献には、有田焼と波佐見焼という名称はほとんど出てきません。しかし、伊万里焼の中でも上手物(=有田焼)、下手物(=波佐見焼)とすでに区別されていたのです。
元禄文化以降、波佐見では一貫して庶民向けの器を作り続けるようになりました。乱暴な扱いにも耐えられ、すぐに壊れることのない磁器を使用した丈夫な食器類。「くらわんか碗」がその代表です。
江戸時代から変わらない、波佐見焼の性格
でも、磁器って高級品だったんですよね。土から作る陶器と違って、磁器の場合は、まず原料になる石を採掘し、粉砕しなければなりません。焼く時だって、陶器は1200度ぐらいですが、磁器は1300度ぐらい。燃料代もかかります。ですから、最初はかなりコストが高かったと思いますね。値段が高いから、一般庶民が手を出せるようなものでなかったと思うんですけど、それを解決したのが大量生産という手法。巨大な窯を用いて、たくさん作ることで、1個の単価を安く仕上げたのです。
わたしは、波佐見焼の大きな特徴は、生活にフィットする焼きものを作ることだと思っているんです。江戸時代に生きた波佐見町の人たちも、庶民にうけるものはすぐに作って売っていたことがわかっています。つまり、流行をうまく取り入れながら器作りを続けてきた歴史があります。これは、今も昔も変わらない波佐見焼の性格としていえるんじゃないでしょうか。非常に柔軟でフレキシブル。波佐見のものづくりの基盤は、江戸時代に作られたといっても過言ではないかもしれませんね。