
“KURAWANKA” 焼きものでつながる、波佐見と枚方のいま・むかし。
ここは、『淀川』の河川敷――。
そう、大阪湾に注ぐ一級河川です。
「長崎県の波佐見のことを発信しているはずなのに、どうして大阪?」と疑問に思うかもしれませんね。
じつは、波佐見焼と淀川にはずいぶん昔からのつながりがあるんですよ。
2024年11月。編集部が取材のため訪れたのは、大阪府枚方(ひらかた)市。
毎年この時期、枚方市では行政が主体となり、「友好・交流都市物産展」を開催しています。
波佐見町は枚方市と「くらわんか交流のまち」として交流都市の関係を結んでおり、この物産展にも出展しているのです。
今年もその時期がやってくることを聞いたHasami Life編集部は、取材のため一路大阪へ。
枚方市と波佐見町の結びつきのルーツを探りに行きました。
波佐見でつくられ、大阪で使われた「くらわんか碗」
「くらわんか」といえば、「くらわんか碗」。 江戸時代に庶民の食器として大量生産され、定着した波佐見焼のことをいいます。
その頃の大阪では、大きな船に乗り移動する船客に向け、小舟から軽食や酒を売る商売が繁盛していました。
波佐見焼は、そこでの乱暴な扱いにも耐えられる、丈夫で安価で庶民的な焼きものとして使われていたのです。
「飯くらわんか(食べないか)、酒くらわんか」と言いながら売買が行われたことから、この小舟は「くらわんか舟(くらわんかぶね)」、器は「くらわんか碗」と呼ばれています。
と、ここまでのお話は、編集部も予習済み。
とはいえ、その「くらわんか碗」は大阪・枚方ではどういった位置づけなのか? 波佐見でつくられた当時の器は残っているのか? 波佐見の外での波佐見焼のあり方については、まだまだ知らないことばかり。
そこで、くらわんか舟や、枚方と波佐見町との関係性について学ぶべく、江戸時代の町家の姿を今に伝える「市立枚方宿 鍵屋資料館」に伺いました。
江戸時代、京街道や淀川を往来するうえでの要地「枚方宿(ひらかたしゅく)」の歴史を伝える資料館。
当時「船待ちの宿」を営み、近代以降も1997年まで料理旅館として営業を続けた「鍵屋」の建物を利用している。敷地は市の指定史跡。主屋は枚方市指定有形文化財、別棟は国登録有形文化財(建造物)。
江戸時代の交通の要衝・枚方宿
「この赤い線で示したところが、京街道と呼ばれる道です。徳川家の時代に、京街道にも4つの宿場町が整備されました。伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿です。
有名な浮世絵『東海道五十三次』は江戸~京都間を描いたものですが、京都から大阪までのこの4つの地点も東海道の延長線上にあるので、現在ではそれらを加え『東海道五十七次』と呼ばれることもあります」
そう話すのは、学芸員の三桝 友梨香(みます ゆりか)さん。 今回の取材ではたくさんのことをていねいに教えていただきましたよ。
「鍵屋のあるここから、枚方市駅を少し越えた天野川という場所までの約1.5kmの範囲が、かつての宿場町です。
そんな宿場町の最も大事な業務が、『問屋場(といやば)』。荷物を運ぶ際の人馬の継立などをしていました。
それに伴い、常駐する人馬や旅人が利用する宿や飲食店が増え、賑わっていったのです。
ここ、鍵屋も宿泊施設でした」
「この地図を見るとわかるように、もともとの街道は淀川とかなり接近していました。
現在は高い堤防と広い河川敷が整備された先に淀川があるため、鍵屋からは距離がありますが、昔は建物のすぐ裏手が川で、舟がとめられるようになっていたんです。
そのため、街道を歩く人だけでなく、船に乗るお客さんも鍵屋を利用していました」
なるほど。先に見た淀川の景色からは、川と街道に結構な距離を感じましたが、昔は川に臨んでいたんですね。
舟運で栄えた町
「車も電車もない江戸時代、たくさんの人や荷物を一度に移動するのに最も簡単な方法は、船でした。
多いときにはなんと1000艘(そう)以上の船が淀川を行き来していたとのことです。
そのなかでも有名な船が『三十石船(さんじっこくぶね)』と『くらわんか舟』のふたつ。
三十石船は大きな船で、旅客を乗せ、京都から大阪までを上り下りしていました」
下りは6時間ほどだが、上りは川の流れに逆らうため、倍の時間がかかったという。上りは京街道を歩いた方が早かったとか。
「そして、三十石船に近づき商売をしていたのが、通称くらわんか舟と呼ばれる2人乗りのちいさな舟です。
くらわんか舟の発祥は枚方の対岸にある高槻市でしたが、あとから営業を始めた枚方で、より盛んになっていきました。
ものを売りつけるときに『飯くらわんか、酒くらわんか』といったように乱暴に声をかけるのが当時から有名で、江戸時代のベストセラー本『東海道中膝栗毛』にもこのやり取りが登場しています。
口はかなり悪かったようですが、それも含めて名物になっていたそうですよ。
映像音声で再現した展示もありますが、関西以外の人が聞くと、結構衝撃かもしれません(笑)」
「模型のお鍋のなかに入っているのが、ごぼう入りの『ごんぼ汁』。手前に見えるのは、通称『くらわんか餅』です。江戸時代のくらわんか餅は、白い餅を串にさして炙り、味噌をぬったものだったことがわかっています。
現在も枚方では郷土料理として受け継がれており、学校給食でも年に一回ほど、ごんぼ汁が出されるそうですよ」
器からしか知りえなかった情報が、展示と三桝さんの説明でより立体的に。
やはり、食のあるところに器あり。どんな食べ物が売られていたのかも知ることができました。
川に浮かぶ舟から声が聞こえてきそうです……!
枚方の生活になじんでいた波佐見焼
「ここには、くらわんか舟で使われていたと考えられることから名付けられた『くらわんか碗』が並んでいます」
おお! なんだか波佐見町で見覚えのある形や絵柄の磁器が出てきました。
波佐見で1800年代ごろまで使われていた「五弁花」の模様もあります。
江戸時代につくられたくらわんか碗の数々は、こちらの記事からご覧いただけます。
舟で使われていたということは、これらは川から出てきたものなのでしょうか?
「ここに展示しているのは、川ではなく、枚方宿遺跡から発掘されたものです。
1980年代ごろまでは、淀川の工事をするとこうしたお茶碗がごっそりと出てきたり、今でも小学生が磁器のかけらを持ってきたりということがあります。
もしかしたら、川底にまだまだ眠っているかもしれませんね」
「遺跡の出土品には波佐見産の器が圧倒的に多く、一般の人々が日用雑器として生活の中であたりまえのように使っていたことがわかります。
その数の多さから、日常で使っていた器が割れ、不要になったら淀川に投げ捨てていたとも考えられているんですよ。
そうして広く暮らしになじんでいたからこそ、くらわんか舟でも使われていたのではないかと推測されています。」
なんと、波佐見でつくられた器は、舟の商売にのみ使われていたわけではないのですね。このあたり一帯の人々の生活に溶け込んでいたとは、知りませんでした。
想像していたよりもずっと、波佐見焼は大衆の暮らしを支え、彩ってきたことを実感しました。
現代の磁器と比べると重たいが、安定感や丈夫さはありそう。
あいことばは「くらわんか」
ここまでお聞きしたように、江戸時代の波佐見焼は一般家庭の食卓にも登場し、枚方宿の暮らしの一部となっていたことがわかりました。
こうした歴史をもとに、今でも波佐見では「くらわんか」という言葉が波佐見焼のブランドのようなものとして多く使われ、知られています。
お聞きした話だと、「くらわんか舟」の商人は結構粗暴な言動だったとのことですが、そのあたり、枚方でのとらえ方はどうなのでしょう?
「枚方では、今でも花火大会の企画名になっていたり、お店の名前に使われていたりと、あいことばのようになっています。
郷土の歴史を語る言葉という位置づけですかね。
くらわんか舟が営業していた江戸時代においても、当時の観光ガイドや書物を見る限りでは独特の乱暴な言い回しも含めてエンターテインメントとして楽しまれていたのではないかと考えられています。」
焼きものをつくる産地である波佐見と、それらを使って商売や暮らしを営んでいた枚方。それぞれ遠く離れた場所で、「くらわんか」というあいことばを共有していたんですね。
このような歴史的な成り立ちやつながりを知ると、より親しみを感じます。
現在は年に一度の「物産展」での交流ですが、これからもさまざまな交流が生まれていくと素敵ですよね。
「そうですね。展示をきっかけに波佐見焼に興味をもってもらえると嬉しいです。」
鍵屋資料館のたくさんの資料や発掘されたくらわんか碗の現物から、新たな発見があり、これまでとは異なる視点で波佐見焼の在り方を再認識できました。
ご協力いただいた鍵屋資料館の三桝さん、みなさま、本当にありがとうございました!
市立枚方宿鍵屋資料館
開館時間 午前9時30分~午後5時(受付は午後4時30分まで)
休館日 毎週火曜日(祝日の場合は開館、翌平日休館)・年末年始
住所 大阪府枚方市堤町10-27
今回の取材では、くらわんか碗が使われていた枚方で、主に舟運や暮らしのことを教えていただきました。
波佐見焼の特徴や歴史については、過去に波佐見町の学芸員・中野さんにより詳しく伺っています。そちらもぜひあわせてご覧ください。
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