HOME よみもの 波佐見の人 窯元探訪【陶房青】vol.24 吉村聖吾×望月祐輔『窯を譲るもの、継ぐもの』 2023.01.21 窯元探訪【陶房青】vol.24 吉村聖吾×望月祐輔『窯を譲るもの、継ぐもの』 by Hasami Life 編集部 波佐見には、町の至るところに波佐見焼と真摯に向き合う「人」が存在します。 決して大きな窯元でないにもかかわらず、波佐見焼の業界の中でも一目置かれ、ファンの多い窯元「陶房青(とうぼうあお)」さん。 1972年(昭和47年)、波佐見町の中尾山でスタートし、2020年1月には新体制になりました。担い手不足が叫ばれるものづくりの業界において “事業継承”という新しい形でリスタートをきって約3年。先代の吉村聖吾さんと、窯元を継いだ現・代表の望月祐輔さんにお話を伺いました。 「陶房青」の誕生は、運命のいたずら? ――まずは陶房青さんの誕生のきっかけを教えてください。吉村さんが初代ですよね? 吉村さん(以下、吉村): じつは父が「青山(せいざん)」の名前で窯を始めたのですが、一度倒産したんですよ。忘れもしない、わたしが19歳のとき。ここに小さい工房があったのですが、夏に帰省してタクシーを降りたら、お袋がひとりで皿板を抱えていて。そこでもうイヤな予感はしましたよね。そうしたら、家で父が病気で寝ていました。 ――当時、お父さまはおいくつだったのですか? 吉村: 55歳。あれから50年、うん、50年が経ちました。 ――そのとき、吉村さんは何をされていたのですか? 吉村: 大阪にある煉瓦工場で働いていました。高校を卒業して4月に就職し、8月のお盆にはここに帰ってきてしまいました。我が青春はたったの4ヶ月。 ――すでに継ぐ覚悟はあったのでしょうか? 吉村: いやいや、まったくなかったですよ。有田工業高校の窯業科は卒業していたけれど、高校生ですからね、真剣に焼きものの勉強なんてしていませんでしたし。青山に窯ができたのが1972年7月23日。わたしが帰ってきたのが同年8月13日。父は倒れたといってもそのあと復活したし、窯を始める準備はできていたし、おそらく策略ですよね。「運命のいたずら」だと思うようにしています(笑)。 ――そこから焼きものづくりをスタートした。 吉村: 右も左も、前も後ろも、斜めも上も下もわからない状態ですよ。家族3人で小さく営むんだから、一番シンプルなものからスタートしようと「かけわけ(掛け分け)」という技法で瑠璃の茶器をつくり始めました。顔料を買って、石灰釉を混ぜて、19歳から24歳までは来る日も来る日も、毎日毎日、外側と内側をかけわけしていました。最初はまだよかったんだけど、同じものばかりつくっていたら、売れなくなるじゃない? そこでまたつぶれそうになりました。 ※【かけわけ】 色の違う2種類の釉薬を掛け分けること。 ――ちなみにお父さんが焼きものを教えてくれるとかは? 吉村: 一切ない。しかも、ほとんど働かない(笑)。わたしは未経験だし、新商品もつくれないし。しかも、26歳の10月に妻と結婚し、年末の12月には仕事がゼロ。お金だってないし、あれは本当にきつかったな。 ――でも、そこから45年も続いているのですよね。なにかきっかけがあったのですか? 吉村: それはもう「出会い」だよね。ある日、納品先の社長が「これを使って何とかせい!」といろいろな「呉須(ごす)」を持ってきてくれたんですよ。さて、どうしよう? 絵付なんてしたこともないし、と困っていたら、あるデザイナーさんと出会って、その人から手取り足取り教えてもらったんです。ほかにも、知り合いがうちの面倒を見てくれるように各方面に頼んでくれていたりして。だんだん少しずつ、売れるようになったのが27〜28歳あたりかな。 ※【呉須】 染付などに使用する藍色の顔料。呉須についてもっと知りたい方は こちら もどうぞ。 吉村: ラッキーボーイやけん。 一同:(笑) 吉村: 時代も味方をしてくれました。ちょうど手描きがもてはやされていたし、同級生が商社に勤めていたこともあって、商品も届き始めました。まだまだ借金があって経営状態は悪かったから、わたしと妻の給料を合わせても15万という生活。それでも29歳のとき、法人化して「吉村陶苑(よしむらとうえん)」にしました。「青山」という窯が他に古くからあったことが判明し、山は取って名盤には「青」と描くようになりました。 「お茶ってペットボトルよりも、きちんと淹れると、ずっとおいしいんですよね」と吉村さん。この仙茶碗は、料理家のminokamoさんが 秋陶めぐり で大量購入されたものと同じシリーズ。 若手が活きる「工場内工房」という方針 吉村: 商売は軌道に乗りはじめ、47〜48歳の頃かな? 雑誌『クロワッサン』のプロデューサーさんに声をかけてもらいました。それまではナチュラルなテイスト、自然な土ものが喜ばれていたのですが、カジュアルなライン、シンプルでモダンな器が人気になったのがこの頃。料理研究家プロデュースの器を担当したこともありました。「雑貨」の流行りはじめでしたね。 吉村: でも、流行りは廃りじゃない? 根本的なものづくりってなに? と突き詰めれば、技術に磨きをかけるしかないんです。もちろん、世の中のトレンドにも注目はして若干伸ばしたほうがいい。でも、全重心をそっちへかけたら、どうしようもなくなるのは目に見えていますよね。だって、時代は変わっていくから。留まっていたら、澱む。でも、窯として「変えてはいけないもの」も持っておこう、と常に思っていました。 ―――吉村さんが思う、変えてはいけないものとはなんでしょうか? 吉村: それが技術。わたし自身は修業をしたわけでもなく、自分に技術がないと考えているから、周りにそれを求めました。特に「もう少し染付のレベルを上げよう」とか、「本格的な焼きものに挑戦しよう」とか、時代の変わり目のとき。そうすると、その都度、そういう出会いがある。もちろん、人は通り過ぎていくから、わたしが掴むか掴まないか、それが一番大事なところです。 ―――出会いを掴む。 吉村: 村上三和子(むらかみみわこ)とも、そんなときに出会うんです。染付のテクニックもすごいし、デザイン感覚もものすごい。あなたが気に入ってくれた器も、村上三和子が描いたものなんですよ。 取材担当・編集部ながみねの私物。呉須の染付が美しく、洋食にも和食にも本当によく合う。特にパスタなどのトマト系の料理を盛り付けたくなる。 吉村: 村上三和子だけでなく、うちの従業員はみなさん、描けるし、それにできる。 望月さん(以下、望月): わたし以外はそうですね(笑)。 吉村: あなたはろくろができるじゃない!もちろん、才能の問題はあるけれど、最初の数年間は、絵付にしたって、ろくろにしたって、誰だって本当につまらないものなんですよ。ある一定までくると、その先が非常に面白くなります。1個より10個、10個より100個、やればやるだけ必ずよくなっていくのがものづくり。10個目はそうでもなくても、100個目は「なかなか良くなったな」と思えるし、1000個目になったら「まあまあか!」と思うものです。波佐見の”くらわんか”の世界はそういうことだよね。そこら辺の絵付のおばちゃんが筆でポンポンポンポン描いていくわけだから。そうすれば、筆が生きてくる。その次は、筆が遊ぼうとする。 波佐見の「くらわんか碗」についてもっと知りたい方は こちら もどうぞ。 ――経験があまりなくても、積極的に採用されていたのですか? 吉村: そうですよ。若手は経験がなくても、やる気はあるから。それぞれに「才能」が潜んでるんですよ。独特の感性を伸ばすための方法のひとつとして、うちでは「工場内工房」という考え方で商品をつくるのです。 ――工場内工房、ですか? 望月: 従業員が持っている才能を生かして、ブランドをつくっていくことです。それぞれが独立した工房を営むようなイメージです。「青」を軸とし、その時に在籍していた女性でつくったブランド「青の芽」、青や赤など華やかな絵柄で鬼や兎などをかわいらしく表現する「青葉」、赤ずきんや鳥などの愛らしい絵付けが魅力的な器のレーベル「M.Pots」など、たとえ陶房青を卒業しても将来につながるようにと、若手の活動の場をつくってくれていたんです。 こちらはM.Pots。繊細な線と可愛らしいキャラクターにキュン! M.Potsには、子ども用の動物の絵付をした食器シリーズも! 吉村: 「青葉」は、焼きものを辞めようとした従業員に「せっかく何年もやったんだから辞めるのはもったいない」と、3ヶ月だけ考える時間をとってもらって立ち上げたブランド。これは売れたよね。 望月: 未だにファンが多いですもんね! 吉村: 同じ箱の中に押し込めるのではなく、才能や感性を少しずつ引き出していくこと。要するにつくってもらったり、挑戦させたり。従業員の力で商品を高度化していくことです。全体としては生産量が落ちるかもしれないし、正直、当面はお金にならないんですよ。でもさ、楽しいじゃない? 芸がやさしいな〜と思う子には、器だけでなく、童話を考えてもらって、本をつくったりもしましたね。 窯を譲るもの、継ぐもの ――どうして、吉村さんは退こうと思われたのでしょうか? 吉村: 結婚してから妻に迷惑をかけっぱなしだったから。もう、ゆっくりさせてあげたかったという気持ちが一番です。廃業もやむなしかな? と思っていたけれど、続けてくれる人がいるんだったら、という想いずっとありました。 わたしたち夫婦には子どもがいないから、息子や娘に世襲することはまず、選択肢としてなかったんですね。弟も継がないというし。40年、一緒にやった人に譲りたいと思っていたのですが「申し訳ないけどできません」という返事でした。もうひとり、継いでくれると言ってくれていた子がいたんだけれど、それも難しくなってしまって。やっぱりショックだったよね。 ――そうだったんですね。 吉村: そして、彼に頼んだよ。まさか跡を継ぐなんて、という感じだとは思うけれど。でもさ、もろもろ含めて「縁」なんですよ。ラッキーボーイといったけど、本当にそう。危機の時に目の前を通るんですから。 ――望月さんはどういう経緯で陶房青さんに入られたんですか? 望月: わたしがここへやってきたのは、28〜29歳のときですね。今から20年ほど前です。建築学科を卒業して、千葉で住宅メーカーの設計の仕事をしていました。焼きものがしたくて九州へやってきたんです。 ――千葉のご出身なんですね! 望月: ええ。当時、佐賀県伊万里に職業訓練校があって、まずは陶磁器科に通いました。失業手当を受けながら、移り住んで就職先を探していたところ、ちょうど「吉村陶苑にたまたま空きが出たらしい」と知り、見学にきました。 吉村: 何でもできる職人がやめてしまったんですよ。本当にたまたま欠員が出たタイミング。望月: 当時はとにかく覚えることがたくさんあったし、夜22〜23時まで窯の仕事をしていまして。19時くらいになると、社長に「ご飯を食べろ」って言われるんです。 吉村: そう、この人はご飯4杯食べるの。2〜3杯なら驚かないけど、4杯目になると、ちょっとは遠慮しろよって……。 一同:(笑) 望月: 当時、同世代が3人いました。同じように東京から来た人だったり、絵付けの仕事をしたい女の子だったり。だから、みんなで社長に食べさせてもらって、遅くまで仕事を頑張って。 吉村: ピーク時で16人、若い従業員がいましたね。みんな、22〜23歳でしょ? 7月になったら、竹をとってきて「七夕をやろう!」と七夕飾りをつくりだした。本当にバカでしょう?(笑)。でもね、会社のムードが華やぐんですよ、若い人がいると。本当に楽しかったよ。ちょうど、わたしたちの子どもぐらいの世代。もう、いっぱい子どもがいるようなもんでしたね。望月: 今でも、桜陶祭などの陶器市に手伝いに来てくれる元従業員たちもいますね。最近では、娘さんが来てくれたりとか。業界からちょっと離れていても、ちょこちょこ自分でつくりながら、焼きものを辞めずにここへ戻ってくるのは、社長の人徳だなと思います。 吉村: なんていうかな。わたしにしたら、みんな子どもみたいなものなんですよ。だから、ときどきでも顔を見せてくれたらうれしいんです。 ――そんな吉村さんから見た、望月さんの「才能」はなんでしょうか? 吉村: それはね、非常に論理的なところ! もともと設計で図面をひいていたからか、とにかくきちんとしています。わたしのほうが行き当たりばったり。性格は会社の未来を大きく左右するんですよ。だから、彼なら経営者をやれると思いました。 ――後継者ができて、どんなお気持ちですか? 吉村: 陶房青はね、わたしじゃなかったんです。これまでに働いてきた従業員がDNAをつくってくれているわけですよ。その蓄積が今の会社のイメージ。もしも、個人でやっていたら、わたしが死んだら何もなくなっていました。ほっとしたといえば、おかしいのかな? とにかく、うれしいというのが本音です。 陶房青の「味」を残していくために 吉村: この50年を振り返ると、本当に楽しかったんですよ。自分たちが考えてつくったものが売れて、それで生活が成り立って。こんなに幸せなことはないと思っています。妻も絵付職人だったので、見よう見まねで一緒に練習したあの頃、焼きものが窯から出てくる瞬間はとにかく感動でした。今でも思い出すと、涙が出そうなくらい。うん、本当に楽しかった。これからは陰ながら協力するけど、表にはもう出ないつもりでいます。 ――おふたりは師弟関係っていう感じではないのでしょうか? 望月: これまでも「指導」という形はなかったかもしれません。わたしは勝手に「見て覚えるぞ」と思っていました。例えば、似たようなものをつくっても、裏返して高台を見ると、やっぱりわたしのは削りが硬いし、社長のはやわらかい。そういうところがまだ全然追いつけないなと思うし、社長が出す「味」がどこからきているのか、もう見よう見まねです。焼きものをどれだけ細かい視点から見てきたのか、イメージの量の違いなんじゃないかなと思っています。 吉村: 教えることは何もないもの。どちらかというと、わたしは下手な職人です。正統派のろくろじゃない。でも、下手が下手なりに一生懸命つくると、うねりとか、ゆがみとか、それが味として出てくるのかもしれませんよね。 ――上手いだけが正解じゃない、ということでしょうか? 吉村: いやいや、それは上手い人にとって失礼(笑)。でも、どうやって「味」を出していきたいか、そこを考えるのは大切だよね。 ――吉村さんは個人の活動として、これからやっていきたいことはありますか? 吉村: 伝統技術を残していきたいと思っていますね。例えば、赤絵。肥前地区の赤絵の技術を活かしながらも、京都の作家さんがよく使われているサビで縁取りをしてから赤絵をつける方法を試してみたいんです。そうしたら、赤絵の時代が戻ってきたときにすぐやれるじゃない?(笑)。 腕を磨いておくわけです。 赤絵。焼き上がりに上絵付けしたもの。 中央のオイルポットも赤絵。顔料が赤だから、赤絵というわけではない。 吉村: あとは、くらわんか碗を赤や黄色、青や緑など、カラフルな色彩で表現したら、面白いんじゃないかって話しています。くらわんか碗の筆の走りはすごい。昔の人はいとも簡単にしゃべりながらでも描けたんだからね。モチーフは同じでなくてもいいんだけど、今年は別の表現を試してみたいよね。 望月: 今までは呉須で表現していたところを現代的な色彩に変え、伝統的な文様にとらわれてたところを現代風の紋様にアレンジしながら、筆遣いを表現するような……? 吉村: そう! そこをね、もっと表現してみたいんですよ。奥深くて、ちょっと渋い感じだから、若い人たちのマーケットには、なかなか通用しないかもしれないけど。手仕事や手業って何? と考えたときに転写や印刷では出せない「味」を残していきたい。そうすると、むしろ伝統工芸というより、アートのにおいがしてくるのかもしれません。 写真の湯呑みのような筆の走りも、波佐見焼ならではの技術だという。 吉村: 日本の独特な食卓文化も守っていきたいな。小鉢、小付、汲み出し、どんどんなくなってきていますから。時代の変化なのはわかります。一方で年を重ねると、和食に凄みを感じるんですよ。手間ひまはかかるんだけど、やっぱりおいしいし、そういったものをこれからもちゃんと供する器は必要です。一番安くつくれるところでつくって、一番高く売れるところに持っていくのは資本主義の大原則。でも、経済危機は何度もきて、それでも知恵を出し合って乗り越えてきたわけですからね。 ――いま、陶房青さんに若い従業員はいらっしゃいますか? 望月: いないですね。基本的に40〜 60代。「下積み」が受け入れられない時代かもしれませんが、やっぱり若手にとっては必要な時間だと思ってしまいます。 吉村: でも、100人が100人、下積みを避けているわけではないよね。そういう感覚をまだ持ってる子がいるんです。出会いを掴むしかない。ある時、テレビで伝統工芸の後継者がいないという放送を見たという理由で、うちにちょこちょこきてくれる人がいるんです。今、大学3年生かな? インターンシップで1週間ほど、来てくれたこともありますよ。希望や夢を持ってやってくる子たちが失望しないような現場にしていかなきゃいけないよね。 望月: こうやって社長はいつもいろんなヒントをくれるんですよね。実際にZ世代に受け入れられる価格帯にどうやって落とし込んでいけばいいのかな?とか、その人たちが「ちょっと高いけど、これなら買いたい」って思うものをつくり出さなきゃ、という気持ちになります。 吉村: つくり手の現場としては、利益率が高まって、従業員に還元されて、後継者を育成できる循環になっていくと、いいよね。 望月: 吉村さんが育ててくださった職人さん、残ってくださった職人さんと、陶房青を継続しながらも、新しいものを生み出していくのがわたしの今の目標です。力のある方には現場を任せていきたいし、昔のわたしのように焼きものが好きできてくれる人、若い世代のやる気のある子は積極的には雇いたいと思っています。そして、ゆくゆくは陶房青を継ぎたいと思ってくれる人がいたら……。今、49歳なのでここから20年くらいかけて育てばいいなと願っています。 吉村: またバトンタッチしていけたらいいね。 「ラッキーボーイやけん」と笑う吉村さんの口からは、望月さんが下積み時代に同じ釜の飯を食べて修業をした仲間たちの名前がたくさん登場しました。才能や感性を引き出す「工場内工房」や「陶房青は従業員のDNAでできている」という考え方は、吉村さんの生き様そのもの。はっきり言葉にはしなくても、窯を継いだ望月さんのことを本当の子どもみたいに見守っているように見えました。後編 では、望月さんに工場やギャラリーを案内していただきながら、「これからの陶房青」についてお話を伺います。 【陶房青】 〒859-3712長崎県東彼杵郡波佐見町中尾郷982 営業日:平日 8:30~17:00(ギャラリー見学可)定休日:土日祝日 ※中尾山交流館にて常設展示あり Instagramhttps://www.instagram.com/toubou.ao/ webshophttps://www.ao-shop.jp/ ※「陶房青」の器は、現在 Hasami Lifeでは取り扱っておりません。 Tweet 前の記事へ 一覧へ戻る 次の記事へ Hasami Life 編集部 この記事を書いた人 Hasami Life 編集部 関連記事 2023.09.22 窯元の火を止めるな! 技術と雇用をつなぐ、波佐見焼企業のM&Aに迫ります。 後継者不在を理由に事業をたたむケースも増えているなかで、窯元の高山陶器(現・株式会社高山)と、商社である西海陶器株式会社はどうやって事業承継に結びついたのか。その先にどんな未来を見据えているのか。 新旧の社長に話を聞きました。 2023.08.25 【編集スタッフ募集中】波佐見焼の魅力を伝える Hasami Life 編集部に密着! 「波佐見焼や波佐見町、職人の手仕事のことを知ってもらいながら、ご自宅に波佐見焼を迎え入れてほしい!」これがHasami Life編集部の願い。週1回のよみもの配信を中心にさまざまな活動をしています。実際、どんな仕事をしているのでしょうか? 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